100周年ストーリー

100th ANNIVERSARY STORY

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「市営交通とわたし」
思い出エピソード

MEMORIES EPISODE

EPISODE

20代コンチャン

・高校の時に利用した名城線。
東別院駅と矢場町駅は良く利用していたな。東別院駅は高校の最寄り駅、矢場町駅は部活での鉄道模型を良く買いに行った場所で、今でも、たま~にとなってしまったが行く。朝は金山駅から乗ると毎回人が多くて。辛い日もあったけど今となっては良い思い出。なぜかと言うと通勤ラッシュに慣れさせてくれた。今でも忘れない。
・黒川駅
高校の頃、仲が良くなった友人が以前に住んでいた場所の最寄り駅だった。今友人は埼玉県の所沢市に住んでいて、コロナ禍になってしまって最近は会えてない。LINE電話で毎日かかさずトークはしている。

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90代杉本清子

市電の八事線で中学校・高校に通っていました。当時、友人の中では‘チン電’と呼んでいました。「あの先輩はここで乗ってくる」とか「あの子はいつも○○しているからあだ名は○○にしよう」など他愛もない話をしていたことを思い出します。
市電がなくなってからは、市バスによく乗っています。最近はノンステップバスになり、とても乗りやすくなりました。自分で車を運転したり歩くときとは、目線の高さが違って、ワクワクするので、バスの中から景色を眺めるのが好きです。

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40代がちょ

もう二十数年前になりますが、市バスと地下鉄を乗り継いで四年間大学へ通っていました。地下鉄は東山線の中村公園駅から終点藤が丘駅まで。帰りは始発ということで必ず座ることが出来たので35分間の読書の時間でした。しかし、時には睡魔との闘いの時間を過ごしたことも多々ありました。それでも不思議なことに中村公園駅に着く頃には目が覚めていたのですが、1回だけ乗り過ごして高畑駅まで行ってしまったことがあります。藤が丘駅では点検作業に入る為か、居眠りしている乗客は全員必ず駅員さんに起こしてもらって下車するのですが、高畑駅ではなんと起こしてもらえないのです!
私が目が覚めた時には、まわりに他の乗客の方がちらほら乗っていて電車が出発するのを待っている状況でしたが、目が覚めたばかりの寝ぼけた脳みその状態では現状把握するまでにかなり時間がかかりました。段々思考回路が働くようになってきて、普通だったら誰も乗っているはずのない始発の電車に、自分が居眠りしたまま車庫から出てきたのだと思いこんだときには恥ずかしくて顔を下に向けて寝たふりをしていました。「顔から火が出る」とはまさにこういう時に使うんだ!と思った瞬間でした。そして中村公園駅に着いた時に、何事も無かったかのように冷静を装って電車を降り、急いで改札へ向かい、その電車が見えなくなった時の安堵感をいまでも覚えています(笑)。

EPISODE

90代杉本清子

その1
昭和40年頃だったか、当時、瑞穂区長さんは毎日公用車で移動や通勤をしていたと思います。
ある時、私の父と区長さんがお話しすることがありました。父が「公用車ばかり乗っていては、区民がどういう思いで満員の地下鉄やバスに乗っているか分からない。経験した方が良い。乗った方が良い。」と言うと、その区長さんはその後、地下鉄も使うようになりました。
どんな区長さんだったか、私はあまり覚えていないのですが、父は「あの区長はみんなの気持ちを分かろうとして、えらいなぁ」と褒めていました。

その2
父は、地下鉄の黄電(きいでん)の黄色や、名鉄の赤色を選びました。
地下鉄は地下を走って暗いので、なるべく明るい色が良いといって、菜種色(ウィンザーイエロー)にして、名鉄は周りが畑とか田んぼの中を走るので、赤色がきれいで良いと言っていました。

そんな父は、桜通線ができるのを楽しみにしていました。できた後は、知多の杉本美術館に通うため、毎日のように地下鉄に乗って、名古屋駅で名鉄に乗り換えていました。帰りは久屋大通で降りて、東急ハンズで画材などの買い物をして帰宅する、それが日課でした。
私は車の運転も好きなので、「お父さん、送ってあげようか?」と聞くと、「僕には地下鉄がある!」と言っていて、本当に地下鉄や公共の乗り物が好きだったことを思い出します。

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50代びんちゃん

今から40数年も前になりますが、当時の地下鉄は、今のように桜通線はなく鶴舞線も伏見~八事間が工事中、名城線も環状運転されていませんでした。そのような交通事情もあり地下鉄各線の終着とされる駅はターミナル駅として現在よりも栄えていた記憶があります。そんな中、私の両親は緑区に家を建てて移り住むことになりました。当時、私は小学5年生、妹も小学1年生になったばかりでした。
緑区は、名古屋16区の中でも面積が広いほうで、特に東端~西端までの距離が約15㎞ほどあり、我が家は名鉄沿線でもなかったため、栄などに行くための交通手段として、最寄り(とはいえ山を越えて天白区まで20分ほど歩いた。)のバス停から新瑞橋バスターミナルまで市バスに乗り、名城線に乗り換えるという方法をとらなければなりませんでした。
当時の新瑞橋バスターミナルには、現在、市バスの運転手の待機所となっているところに市営交通の案内所があり、市バスの元車掌さんとおぼしき女性スタッフの方々が働いておられ、発車時刻や乗り換えの案内はもちろんのこと、交代でターミナルのバス乗り場に出向き、並んでいる乗客への乗車券の販売なども行っていたと思います。
当時、北区に住んでいた祖母が、敬老パスを手に緑区までよく来ていましたが、案内所スタッフの方々は天白区や緑区の土地勘がない祖母に親切丁寧に接してくれていたようで、乗るバスを間違えそうになったら声をかけてくれたとかバス乗車口のステップで支えてくれたとか祖母からよく聞いたものです。
マナカなどハード面が充実している昨今ですが、市営交通100周年を機に、先人の方々のソフト面での心温まる接客を再度思い起こしていただき、今後も市民から益々慕われる公共交通機関として歩んでもらいたいなと思います。

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40代ピカチュウ

僕は子供のころ乗り物に乗っていろんなところに行くのが好きでした。バス停でバスを待ってると様々な年代の車両が来るのが楽しみでした。中にはエアコンなしで床が板張り車体の色が黄色と緑。シートがロングで赤色、ときには青と白のバスシートが緑色。一度バスの中に忘れ物したとき中川車庫まで取りに行ったとき車庫の中見たらたくさんの年代物のバスから新しいものまでありました。運転台の窓ガラスの下にワンマンカーのマークがついてたり日野マーク、丸八マークがついてました。あとたくさんの運転手さんにも僕の名前と顔おぼえられててうれしかったです。

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20代ten

初めて鉄道ファンになったきっかけが名古屋市営地下鉄鶴舞線です。そこからいろんな鉄道が好きになりました。鶴舞線には交通局の車両以外にも、名鉄の車両も乗り入れており、西は犬山、上小田井 東は赤池、豊田市まで愛知県の端から端まで走っているのですごいなと思います。また、赤池にはレトロでんしゃ館があり、市電から東山線の初期車両(100形)までいろんな車両が見られます。
今はコロナ禍で、市バス・地下鉄の乗客も減りましたが、これからも頑張ってほしいです。

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10代西のえび

幼稚園児の頃、毎週土日のどちらかは父親と一緒に、市バス・地下鉄を乗りに出かけていました。当時はまだ4本ほどしかいなかった東山線のN1000形を目当てに、高畑と藤が丘を毎週のように往復していた記憶があります。私の自宅は中川区にあり、東山線の駅が近いことから出かける度に東山線を利用しており、特に帰りの電車がN1000形だった時はいつも父親と終点の高畑まで一旦行ってから、折り返しの藤が丘行きに乗車し、最寄り駅で降車し、市バスに乗り換えて帰宅していました。

小学校に入学する少し前の土曜日、この日も父親と出かけ、たまたま帰りの電車がN1000形でした。高畑まで乗車し、到着後は藤が丘行きとして折り返すため、折り返し待ちで電車が停車している際にカメラで撮影しようと考え、先頭車へ向かいました。高畑到着後、物珍しそうにカメラを構えていると「電車好きなの?」と運転士さんが声をかけてくださりました。私は当時幼稚園児ながら「そうです!」としっかり答えると運転士さんから『のってくれてありがとう!』の文字とN1000形が描かれているカードを受け取りました。なかなかこのような機会はなく私も父親も非常に感動しました。更には運転士さんが乗務員室扉を開け、外から見える範囲で乗務員室を見せてもらいました。嬉しさのあまり言葉を失ってしまいましたが、最後は本当にありがとうございましたとお礼をし、藤が丘行きに乗車しました。最寄り駅で降車し、発車を見送ると運転士さんが手を振ってくださりました。

あの日貰ったカードはまだ大切に保管してあり、カードを見る度にあの日のことを思い出します。
素敵な思い出をありがとうございました。運転士さんには本当に感謝です。

EPISODE

30代夏の日の思い出

「あんたたち、明日、これで一日出掛けてきなさい。」
小学一年生の夏休みだった。
仕事から帰宅した母は、唐突に3つ上の兄と私にそう告げた。それでバスと地下鉄に乗れるから、と付け加えて母はさっさと夕食の支度を始めてしまった。テーブルには、カラフルな磁気カードが2枚置かれていた。

名古屋港に行くことになった。行き方はまったくもって、兄に任せてしまった。
朝からうだるような暑い日だった。
大曽根駅からバスに乗った。地下鉄にも乗った。
しばらくして知らない駅で降りた。名古屋港に着いたのかと思ったら、違った。

もう帰ろう、と兄が言った。
名古屋港に行かずに帰るなんて!と反対したものの、始めて降りた駅と見たことのない街並みに、すっかり怖くなってしまった。
帰れなくなったら、どうしよう。
兄と、知らない女の人に栄までの行き方を訊いた。二人目の女の人が、次に来るバスに乗れば栄まで行けると教えてくれた。
終点で降りると、バス停からテレビ塔が見えた。ホッとして、二人で我慢していたトイレに駆け込んだ。 家に着いたら、どっと疲れて眠ってしまった。

当時の話を兄とすると、あの時のお前は本当に能天気で使い物にならなかったと、必ず言われる。

能天気をあの日に置き忘れたかのように、大人になるにつれて、念入りにルートを調べてから出掛けるようになった。ましてや手元の画面ひとつで簡単に時刻表も運行状況もわかる世の中だ。
今は毎日、地下鉄で職場に向かう。職場の窓からは、行き交う市バスが見える。地下鉄や市バスに乗るのは日常になった。
だけれども地下鉄や市バスに揺られていると、ふとした瞬間に一日乗車券を握りしめたあの夏の日を思い出す。車窓から見える景色に心が踊ったあの頃にまた出会えるように、市バスと地下鉄が名古屋の街を走り続けてくれたらと、思っている。これからもずっと、ずっと。

EPISODE

90代長尾 義雄

その1
 名古屋市の火葬場は八事霊園の中に有ったので、各家庭では葬儀が終わると、棺を運ぶ専用の市電を使っていました。
 従来の市電は、市電の前後に扉が有りましたが、この市電は車両の中央に両開きの扉があって、棺の積み降ろしに便利になっていました。
※当時の尾張電気軌道(名称変更後、新三河鉄道)の事業でした。

その2
 私は岐阜県の出身ですから、親戚も友人もたくさん有ったのでよく出かけました。
 当時名古屋市西区押切町から岐阜行の名鉄電車が走っていました。たまたま西区に住んでいましたから、よく浄心駅から、押切駅まで市電を利用していました。
 面白かったのは、当時の新聞等が「座れる電車」として報道されていた事です。そう言えば、従来の市電のお客さんは全員立っていましたが、新しい座席が取り付けられ、大変好評だったことを覚えております。
勿論、好奇心旺盛な私も楽な市電に乗りました。

EPISODE

50代なごやネコnana

市電の思い出
小学校の頃、同級生と自転車で笠寺西門まで行き、そこから市電に乗ると金山まで一本で行けました。名古屋にできたばかりのミ○タードーナツで、新しいものや珍しい色とりどりの甘〜いドーナッツを買いました。友達と今も変わらない定番のココナッツやチョコレートのドーナツなど色々なドーナッツを買いました。
市電で子供だけで笠寺西門から金山まで1本で行けたのが、子供心に感動しました。
子ども料金ということもあって、料金は、たしか15円か25円だったので、その値段にも感動でした!
市電で高辻に同じくドーナツ屋さんができたので高辻にも行きました。
市電は何となく可愛らしく、ゆったりのんびり走って子どもだけでも安心して乗れたし、人に優しい良い乗り物でした。こんな良い乗り物が名古屋にあるんだ!と子ども心に思いました。
ある日、市電が廃止されたと知って、結構ショックでした。

今はもう懐かしい市電に代わって地下鉄が、名古屋をぐるぐる快適に走ってますね!
地下鉄と市バスには何時もお世話になっております。ありがとうございます。
写真は新瑞橋バスターミナルで撮った「満月と市バス」の写真です。

EPISODE

30代大谷

通勤で毎日市バスを利用していた頃、いつも私と同じ時間、同じ路線のバスに乗る女性がいました。
名前も年齢も知らない、まったくの他人ですが、長年同じバスを利用していたため、顔ははっきりと覚えていました。
その女性と、ばったり旅行先の京都で会ったことがあります。
きっとその女性も、私の顔を覚えていたのでしょう。
お互い顔を見合わせ、目を丸くして、最後に軽く会釈をしてすれ違いました。
その後、市バスで一緒になると、挨拶だけ交わすようになりました。
市バスを利用する中で、不思議なつながりを感じた出来事です。

EPISODE

30代ymama

3才の息子と一緒に、よく地下鉄に乗車します。
息子は地下鉄が大好きで、地下鉄を降りてもホームを離れず、動く地下鉄をずーっと眺めています。
ある時、地下鉄に向かってバイバイをしていたところ、なんと運転士さんが手を振りかえしてくれました!息子は憧れの運転士さんのリアクションに大喜び!将来の夢は地下鉄の運転士とのことです(笑)

運転士さん、お忙しい中ありがとうございました。
今後とも楽しく乗車させていただきます。

EPISODE

30代JNN

名古屋市バスと言えば、1990年の9月に起きたかなり有名なエピソードでしょう。
K運転手さんですね。
メディアでも報じられ、本当に心に残ってます。
路線を外れてまで人助けをした方はいないと思います。
ぜひこの話を100周年のエピソードとして取り上げて下さい。

思い悩む1人の女性が歩道橋から転落し一刻を争う事態の中、路線バスが無断で路線を外れるという、全国的にもあり得ないルール違反をしながら女性を助けた運転手。

いろいろな乗客からクレームもあり、市バスの問題児とされていましたが、市バスのヒーローとなりました。

また、Kさんは直接、女性の命を救ったわけですが、それだけではありませんでした。バスで運ぶ途中、女性に励ましの言葉をかけていたそうです。

この優しい言葉により、女性は、命だけでなく、心まで救われたと語ったそうです。

EPISODE

20代あっくん

思い出は2つあります
1:僕が小学生の頃、東山線に乗るときはフルラッピング車が来るかどうかワクワクしながら待ってました。特に東海テレビのわんだほと、N1000形がやってた名古屋開府400年記念の真っ黄色をまとったラッピングが好きでした!

2:成人になってカメラを手にして、思い入れのある東山線の風景を撮影し始めると、童心に帰ったかのようにファインダーを覗いていました。好きな時期は12月あたりの名古屋に雪が降ると東山線もそれに合わせて雪化粧をするところです。

EPISODE

50代ヤマダ

名古屋市営バスとの出会いは49年前です。今は市バス栄18号栄から妙見町まで走っていますが、旧50号系統名古屋駅発妙見町を利用して名大病院(病院正門前)への通院に利用していました。地下鉄鶴舞線ができてからは鶴舞線で。
今でも名古屋市営バス・地下鉄に乗って名古屋市内を回っています。これからも名古屋市営バス・地下鉄に乗って名古屋市内巡りをしたいなぁと思っています。市民のために市バス地下鉄には安全快適な運行をしてもらいたいと思います。これからもよろしく!

EPISODE

20代りー

高校生になってから3年間、土日以外休まないで毎日通学で利用していました!

地下鉄と市バスに乗って色んな観光地に行ったりしました!
特に、名古屋港と東山動植物園に行ったりすることが多いです!
名城線を1周乗ったり、ほかの路線で起点から終点までを往復したりもしていました!

特別列車でクリスマストレインは毎年楽しみで、乗れるとものすごく嬉しくてテンション上がります!
それを目当てに毎回乗りに行ったりもしていました!

毎回グッズが出るたびに購入させていただいて、飾ったり実際に使ったりもしています!

EPISODE

50代Rila

東山動物園など家族とのお出かけ、受験、通学、就活そして通勤。私の人生にはいつでも市バス・地下鉄が身近にありました。
いつかこの仕事を離れても、市バス・地下鉄はずっと私にとって大切なものとなっていることでしょう。
これからも、お客様の日常を、名古屋の街での楽しみを、子どもたちの夢を支える交通局であり続けるために、私は今日も市バス・地下鉄と一緒に走ります。

EPISODE

30代地下街施設担当

私は地下鉄駅に併設された地下街の管理運営会社において、施設の維持管理を担当しています。
1957年の市営地下鉄の開業と同時に地下街も開業しました。以来65年間、地下街は、地下鉄の延伸に合わせた新規開業やリニューアルなどを通じて、駅の賑わいづくりに寄与し、地下鉄と共に発展してきました。
地下街に携わる者として、今後も名古屋駅地区や栄地区で進められているまちづくりへの対応など、未来を見据えた諸課題に取り組み、地下鉄駅をご利用のお客様が足を運びたくなるような、魅力ある地下街を創っていきたいと思います。

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40代BAN

小学生のころ、緑区の自宅から中区の祖父母宅に行くために一人で伏見まで東山線に乗りました。中学生のころ、御器所の塾に行くために鶴舞線に乗りました。高校生のころ、今池〜野並間が開通し桜山まで桜通線で通学しました。大学で名古屋を離れましたが、就職後、桜通線で通勤し、子供たちと名城線で野球、スポーツ観戦に行っています。バスにも毎日乗っています。
初めて乗ってからもうすぐ40年、これからもよろしくお願いします。

EPISODE

10代名古屋の田舎侍

今は亡き母は、私が幼い頃市バス・地下鉄で私を連れてよく市内の旅に連れて行ってくれていました。その頃登場したドニチエコきっぷを毎週末買ってそこら中に行った記憶があります。
母が亡くなり、一時期は市営交通に全く興味が無くなっていましたがある時を境に突然火が付き、今では毎日市バスを撮影するほどになってしまいました…(笑)
あの頃の思い出の品はないかな…などと荷物を探しているとあの頃のドニチエコきっぷが2枚出てきたのです。2008年1月~2009年3月ごろまでの1年3ヶ月間のみ発行されていた少し珍しい(?)もので未使用でした。
2019年の年末、市営地下鉄では終夜運転が行われることをふと思い出し思い付きで撮影しに行くことにしました。その日を以て600円のドニチエコきっぷが使用不可になるのも知っていたので一つに「2019年12月31日」を印字することにしました。
ということで梅森荘23:14発の2019年最後の幹星丘1系統のバスの料金箱にドニチエコきっぷを投入。すると本来使えないはずの「2020年1月1日」の印字がされて出てきました。これには私もびっくりしてしまい間違っているんじゃないかと思いましたが、しっかり正常に通過することができました。
このきっぷのおかげで深夜3時の地下鉄を味わうことができたり、私の地元である猪高営業所にやってきたレトロカラーバス初めての運用に乗車することができました。色々なところを旅したあの頃の記憶が蘇りとても思い出に残る正月となりました。
今でもそのきっぷは大切に保管してあります。母との大切な思い出ですし、おそらく世界で一枚だけの平成20年頃のデザインに2020年の印字のきっぷで他の市営交通ファンに見せると羨ましがられたりします(笑)
もし自分に子供ができたら沢山バス、地下鉄で旅をさせて新たな世界を見つけさせてあげたいです。

EPISODE

10代satofamily503

毎日通学で利用している市バス。高校に入学して少し経った頃、いつものようにターミナルにバスが着きドアが開くと「おはようございます」。なんと運転士さんがお客さん1人1人に挨拶をしているのです。自分も挨拶をすると丁寧に挨拶を返してくれました。バスが動きだしてからも丁寧なアナウンスは続きます。さて、高校の最寄りのバス停が近づいてきました。するとアナウンスで、「今日も元気にいってらっしゃい」。思わず笑顔になりました。バスでこんなにほっこりした気持ちになったのは初めてでした。それからこの運転士さんのバスに当たると、内心とても嬉しかったものです。
自分は今高校3年生。卒業するとこの運転士さんには二度と会うことができなくなってしまうかもしれません。3年間いつも丁寧に挨拶をしてくれた運転士さんには感謝の気持ちで一杯です。

※エピソード内容は、個人の記憶や印象によるもので、事実と異なる場合があります。

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新たなステージへ→これからも、街をむすぶ。人をつなぐ。新たなステージへ→これからも、街をむすぶ。人をつなぐ。