市営交通のあゆみ番外編

HISTORY EXTRA EDITION

この記事をシェアする
  • Twitter
  • Facebook
  • LINE

パレードが行くよ。花電車と花バスが走った街

「市営交通100年祭」PRパートナー
NPO法人名古屋レール・アーカイブス

名古屋まつりと花電車

昭和30年代の名古屋・大須の街で暮らす少女とその生活を描いた小説、「碧と花電車の街」(麻宮ゆり子 双葉社 2018年4月22日発行)。
その中で、表題にもあるように名古屋まつりで街を走っていた花電車が、主人公の心を映す重要な役割をになっています。
その一節。
「停車場にはすでに子連れのお母さんや学生たちが、わくわくした様子で一列になって待っていた。みんな花電車を見に来たのだろう。」
昭和の時代、花電車が通る時刻は新聞に掲載されており、最寄り(もしくは出先)の電停を通る時間が近くなると三々五々近所の人が集まってきて、その到着を今や遅しと待ち構えていました。
今回はそうした花電車、花バスと市民の“距離”を中心に紹介します。

昭和31年/1956年の第2回「名古屋まつり」。栄町交叉点を花電車が威風堂々と進んでいきます。
溢れんばかりのこの人波は花電車目当てだけではなかったはずですが、それでも多くの人が花電車に歓喜していたことは間違いありません。

同じ昭和31年/1956年10月15日の栄町交叉点付近。電停では人員整理の警察官が活躍していました。

昭和30年/1955年10月、第1回「名古屋まつり」。夜を彩るまばゆいばかりの花電車群。場所は栄町交叉点。

先の写真をトリミング。夜にも関わらず、見物客が多く出ていることが分かります。市民の皆さんはきっと、光り輝くイルミネーションに酔いしれていたことでしょう。
当時の花電車は昼も夜も「カーニバルのパレードだね!」と言っても、あながち大袈裟ではない人気ぶりでした。

●「中部日本新聞朝刊市民版」(昭和33年/1958年10月10日)
この記事によれば、昭和33年は10月10日から5日間、3両ずつの2班体制で運行されていたことが分かります。
なお花電車の時刻表ですが、昭和41年/1966年からは花バスの運行が始まり、その時刻も追加されています。

●「中部日本新聞夕刊」(昭和29年/1954年10月12日)
この記事、一見「名古屋まつり」みたいですが、実は違います。
名古屋まつりが始まる前年に開催された「名古屋商工祭」の記事で、花電車のことが書かれています。

●「市電写真集 名古屋を走って77年」(昭和49年/1974年3月31日 名古屋市交通局)
「市電写真集 名古屋を走って77年」に掲載の昭和29年の花電車。新聞記事の写真はこの電車ですね。

こちらの電車では「商工祭」の文字がはっきり読めます。
この「名古屋商工祭」ですが、翌昭和30年からその名を「名古屋まつり」と変え、その後は名古屋を代表するお祭りとして、名古屋市民の絶大なる支持を受け、今も連綿と続いています。
余談ですが、ネットで検索すると出てくる「名古屋まつり」のコンテンツでは、この「商工祭」と「名古屋まつり」を混同しているものがままあります。御注意下さい。

ところで私を含め多くの名古屋市民にとって、花電車・花バスと言えば名古屋まつりです。でも名古屋市に限らず全国の「花電車・花バス」、実は様々な機会に走っていました。

私が知る限り最古の花電車

●「市営三十年史」(昭和27年/1952年8月1日 名古屋市交通局)
名古屋市営ではなく名古屋電気鉄道時代の花電車。
日露戦争戦捷(せんしょう。戦争に勝つこと)祝賀記念ですので明治38年/1905年から1~2年以内と思われますが、明治31年/1898年の路面電車の開業からまだ日が浅い内から花電車は存在していました。
また日露戦争の戦勝祝賀については名古屋でも大々的に行われており、そこに花を添えていたと思われます。

大規模イベントと名古屋市の周年記念

●「名古屋鉄道社史」(昭和36年/1961年5月16日 名古屋鉄道)
上段の電車は明治43年/1910年に鶴舞公園で開催された博覧会「第10回関西府県連合共進会」を記念したもので、下段は同年が名古屋開府300年であったことによる花電車です。
※名古屋の開府(=政治の中心地としての町の始まり)は、慶長15年(1610年)。清洲越しの始まり、名古屋城の築城開始の年とされています。

昭和8年/1933年の「市営十周年記念」。

この年には、既に市営バスも走っていたことから「花バス」も登場しています。なおこの花バスが名古屋市営の最初の「花バス」です。ところで市営十周年が1933年とはこれ如何に?

この昭和8年(1933年)は、現在の名古屋市役所本庁舎が竣工した年で、それに合わせ、同年10月1日~3日には「名古屋市庁舎竣功祝賀大名古屋祭」が開催されているのですが、その絵はがきの花バスは何故か市営十周年と同じ装飾。
ここからは推測ですが、「市営十周年」行事を「市庁舎竣工」に合わせたものと思われます。

慶事と花電車

皇室の慶事に合わせ運行された花電車。大正14年/1925年の大正天皇銀婚式の祝賀電車。

昭和3年/1928年の「御大典奉祝」花電車。昭和天皇の即位のお祝いは大正天皇の喪の明けるのを待って行われており、それをこうした花電車で知る時代でもありました。

昭和8年/1933年、熱田神宮のご遷座(新殿を造営し、旧殿の御神体を移す)の記念。このように大きなお祝い事がある度、華やかに花電車・花バスが市街をパレードする時代だったのでしょう。

何せ昭和の時代でも30年代はまだまだ娯楽の少ない時代で、名古屋まつりが始まった昭和30年でのラジオ放送はNHK(2波)と中部日本放送だけ。テレビはまだNHKのみでした。
その後、庶民の娯楽は時代とともに増えていきましたが、名古屋まつりという名古屋の一大イベントへの期待と盛り上がりは別格で、特に花電車・花バスは経路にあたる地元の方にとって、身近な「名古屋まつり」の象徴だったと思います。

花電車の終焉

昭和47年/1972年10月15日の花電車。熱田神宮前電停にて。

昭和47年/1972年10月15日の花電車。市立大学病院電停にて。
名古屋市電最後の花電車の運行は昭和48年10月。ただ筆者は当時、東京で大学生活を送っており、昭和47年のこの姿が私にとっての花電車の終焉となりました。

花バスの終焉

昭和60年/1985年の地下鉄の中吊り広告。一言で言えば花バスの時刻表。
花電車が姿を消した後、花バスが名古屋市内全域をくまなく回っていました。
余談ですが、通常の市バスの路線とは異なるため、慣れないルートを定時運転しなければならない運転士さんへのプレッシャーが如何ばかりかと察しています。

平成元年/1989年10月17日の花バス。場所は市役所前。
私にとって、花バスは夜間のイルミネーションよりも、日中の太陽の下(もと)を走るこの姿が好きでした。

平成17年/2005年に運行された最後の花バス。この年は愛知万博の開催に合わせ、名古屋まつりは5月に変更されており、この写真は5月28日に市役所前で撮影されたものです。
協賛企業が無くなったことが花バス引退の主因でしたが、一抹の寂しさは拭えませんでした。

平成17年/2005年5月29日、名古屋市交通局名城工場(名古屋まつりの時期はバスの車庫としても使用された)に2台の花バスが戻って来ました。
この直後、電飾のスイッチが切られ、こうして名古屋の「花電車・花バス」の歴史が幕を閉じました。

花電車、花バスの思い出

私の知る昭和の少年は、花電車・花バスを自転車で追いかけたそうです。
速度が早かった花バスだけではなく、遅いと思っていた花電車も、自転車ではどんなに頑張っても追いつけなかったとか。
そんな思い出を今も嬉々として語れるのが、当時の「花電車、花バス」という存在でしょう。
昭和の時代の記憶のある方なら、新聞を見て、花電車・花バスを見に行った人は多いはず。私自身もそうでしたし、私の周囲にも結構いました。

●昭和47年(1972年)10月 大久手交叉点(名古屋市千種区)
花電車と花バスが出会った貴重な1枚。

花バスの向こうには近所の幼稚園児と覚しき子ども達が出迎えていました。
既に50代を迎えているこの子達には「花電車・花バス」はどんな風に見えていたのでしょうか?

最後に。
山下達郎作詞、作曲の「パレード」(1994年)という曲をご存知でしょうか?
今回、この原稿を書きつつ「通りにあふれる虹のかけら」「ご覧!! パレードが行くよ」、、、というこの曲が頭の中をずっと巡っていました。
筆者にとっての花電車・花バスはカーニバルのパレードそのもの。往時を知る名古屋市民にも、きっと同じ感想を持ってもらえると思っています。

※今回の記事では、年月日の記載を「元号/西暦」としています。
 これは時代背景を読み解く際に、この方が分かり易かろうと考えたことによります。ご賛同頂ければ幸いです。
※新聞スクラップは、NPO法人名古屋レール・アーカイブスに寄贈されたものです。
 中吊り広告は、NPO法人名古屋レール・アーカイブスの所蔵品。
 何れも今回のテーマに沿って、会員のUさんが探し出してくれました。多謝。
※撮影者名のない写真の撮影及び絵はがきの所蔵は稲見眞一。

新たなステージへ→これからも、街をむすぶ。人をつなぐ。新たなステージへ→これからも、街をむすぶ。人をつなぐ。